☆クロネコの「ニャァン」声は・・・
昨年6月初めから午後3時頃にお昼寝に来ているネコ
手前の草「リュウノヒゲ」の上で丸まって寝ている
飼いネコではないようなのだが、、雨が降った日は来ていないし
もともとどこかで暮らしていたのだから、心配しなくてもいいのだが
来ないとどこに行ったのか、と心配して、、、
オス・メスも分からないのに名前をつけようと思っていた
どこで暮らしているのか・・・
☆ 今日は2月14日 バレンタインデーです。
チョコは買い物のついでに、そこそこのを買っていますが、、
期待もしていないし、豆まきの次の行事といったところで(^_-)-☆。
1958年に 初のバレンタインフェアをデパートでしたのが「メリーチョコレート」
モロゾフの菓子職人だった原堅太郎は
1949年に東京都目黒区の小さい作業場でチョコレート製造を始めたのが始まり。
1958年2月 - 初のバレンタインフェア
時代は変わり2008年ロッテホールディングスの完全子会社になりました。
かつての丁寧さはなくなり、、
コージコーナと同じようにロッテの作り方に変わりました。
マコトニザンネン"(-""-)"
※はてなブログの皆様には強烈記事だと思いますが、、
を ご覧ください。
ところで、
半年前に現れたクロネコが発する「ニャアン~」の小声が庭でした。
久し振りの登場です。
実はクロネコのために、内緒で猫のご飯を買って待っていました。
慌てて、餌をとりに入ったところ、姿を消していた。
餌を受皿に入れ隠れていたところ、出てきて食べている。
カメラを向けると、へっぴりこしでムシャムシャ~
右目にヤニのようなモノが。
目と目が合った瞬間また逃げて、、慌てて餌を落とす
また隠れていると、、
落ち着いて食べさせるため、窓を閉めて撮りました(*^^*)
2月13日に現れて、今日はまだ来ていな~い。
どこかでご飯は有りつけているのかしら。
☆大きなカメムシ 越冬探し。。
関東には珍しい大きなカメムシは福島・会津から運ばれてきました
正確にはくっついて来た
以前「山の家」があり晩秋になるとやたらログのすき間に入り込んでいた
この大きなカメムシはわが家に来て代々生きのびている
そして調べていると
↓
この2種類は「わるいカメムシ」に分類されていた
「よいカメムシ」
「ただのカメムシ」
気になる人はご覧ください
↓
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旧ブログより転載
昨年、山行途中、北ノ俣岳(標高2661m)でキレイなカメムシをみた。
石にしっかりとまって動かなかった
↓
☆昆虫も草花たちと同じで、出会いからドンドン広がっていく~ヽ(^o^)丿
カメムシ記事をまとめました。
☆京都 : 鞍馬の「大天狗」と「あうんの虎」
趣きある駅舎の窓ガラスには、京の鞍馬の雪景色
鞍馬駅前には、シンボルの大きな天狗のオブジェが、1月14日夜から
降り続けた雪の重みで、2.3mの鼻が根元から折れたニュースを、
前日、現地のニュースで知った。
まじかに見るとホンマ痛々しい(;´Д`)
その後のニュースで、補修までの、応急措置を
「ただいま治療中」
とバンドエイドを貼ったところ、外国人観光客が
「なんてキュートなの」と反応がとても良いらしい(≧▽≦)
下画像2点 出典
↑
鼻の素材は、ちなみに発泡スチロール製で耐久性は低い。
★鞍馬山の大天狗は天狗の総元締め
日本全国各地の霊山、
例えば「比叡山」、「飯綱山」、「白峰山」、「大山」、「彦山」、「愛宕山」等々には決まって天狗伝承があります。
この天狗様にはいろいろな階層もつけられています。
大天狗
小天狗
烏天狗(からす・てんぐ)
木の葉天狗(このは・てんぐ)
なかでも、ここ鞍馬山の「大天狗」は【僧正坊】と呼ばれ日本各地の天狗様の「総元締め」として、
また僧正が谷は総本山ともいえる場所として語り継がれています。
天狗は古くから「山岳信仰」とかかわりがあり、修験者が守護神として祀っていたが、
中世以降山伏の堕落もあり天狗を妖怪な「魔物」とみなす風習もうまれるなど、
時代ともに姿やイメージも変遷してきました。
ソース元
叡山鉄道「鞍馬駅」から山門まで徒歩5分
仁王門(山門)
明治44年の再建。左側の扉は、 寿永の頃(1182~4)のもの。
両側に立つ仁王尊像は運慶の嫡男、 湛慶作と伝承。
浄域への結界
階段の参道を上がっていきます
九十九折参道へ
普明殿を少し過ぎると右手に 「放生池」「吉鞍稲荷社」「魔王の滝」 。
。
吉鞍稲荷社、(左)鬼一法眼社
『義経記』で義経は、兵法の大家、鬼一法眼から兵法書 『六韜』 を盗み、
学んだとされています。
鬼一法眼社
鬼一法眼を祀る社では武芸の上達に御利益があるそうです。
由岐神社
由岐神社の祭神の「靫明神」は、
鞍馬の火祭は、
里人がかがり火を持って神霊を迎えたことによるものだと伝承。
正面は 御神木
(振り返って)
舞台造りの拝殿の中を、石段が通り珍しい割拝殿
桃山建築 重要文化財
さらに参道階段を歩いて由岐神社
本殿へ
この由岐神社の狛犬は、いわゆる「宋風獅子」といわれている。
大きな特徴は、片方が子を抱き、一方が毬をとるという形が多い。
⇐拝借しました出典
※九州地方の狛犬に似ています
↑
由岐神社の先は積雪多しで断念、引き返しました。
ロープウェイ 多宝塔駅から 多宝塔
多宝塔
ロープウェイ 多宝塔駅から参道を進むと、やがて、弥勒堂に到着。
そこを過ぎると、九十九折(つづらおり)参道と合流し、転法輪堂に至る。
雪かきした参道を(*´Д`)ハァハァ登って着ました
本殿金堂
鞍馬寺の 本殿金堂
金剛床宇宙の大霊、尊天のお働きを象徴する
千手観音菩薩・毘沙門天王・護法魔王尊(脇侍、役行者・遮那王尊)を
奉安する中心道場。
御本尊は秘仏で、60年に一度、丙寅の年に開扉されます。
本殿の地下は、宝殿で信徒の清浄髪が厳かに祀られています。
毘沙門天の出現が、寅の月、寅の日、寅の刻とされていることによります。
「あ」から始まり、「ん」で終わることから「阿吽」は、
宇宙の全てを包含すると言われています。
本殿金堂前の金剛床は、
宇宙のエネルギーである尊天の波動が果てしなく広がる星曼荼羅を模し、
内奥に宇宙の力を蔵する人間が宇宙そのものである尊天と一体化する
修行の場となっています。
お土産を買いました☆
「あうんの虎」
「阿吽」は、ものごとの初めと終りー宇宙のすべてを表し、
鞍馬山では「すべては尊天にてまします」と唱えて、転禍為福を祈ります。
「あうんの虎」は古くから魔除けとして、新春のみ授与されています。
寄せ集め 仮神棚に置いてみました。
愛くるしい「あうんさま」でございます( *´艸`)
この広場には中央に
金剛床(金堂前の六芒星のようなマーク )があるのですが、雪の中。
内奥に宇宙の力を蔵する人間が宇宙そのものと一体化するという
鞍馬山の教えの理想を表現しているそうです。
トレッキングシューズを履いていましたが、これ以上前進は諦め
引き返します。
= 御朱印 =
☆京都大原魚山 静かな古刹 来迎院
魚山橋の東呂川に沿って山道を300mほど登り、
下界と隔絶した雰囲気をもつ天台宗の古刹。
来迎院は、延暦寺の別院です。
平安時代前期、慈覚大師円仁が天台声明の道場として創建したのが始まりと伝えらています。勝林院とともに、天台声明の中心として、大原では隆盛を極めていました。
1109年(天仁2年)融通念仏の祖とされる聖應大師良忍がこの寺に入寺して再興されました。
本堂
本堂には
木造薬師如来坐像・木造阿弥陀如来坐像・木造釈迦如来坐像を安置
(重要文化財)
参考文献wiki
本堂内は撮影禁止
雪かきをしてた手を休めて、御朱印を書いて頂きました☆
シーンとした人里離れたお寺さんで、 参拝者はひとり
※鞍馬に移動するバス時間の関係で駆け足参拝。
下界と隔絶した雪景色大原の古刹は、
本来の姿を現したように静寂で無の世界を誘っています。
ある意味で今回の古寺巡りは、山行に近いものを感じ、
澄んだ景色はとても新鮮でした。
また再び近いうちに大原に足を運びたい(*‘∀‘)。
大原六寺院(寂光院・三千院・実光院・勝林院・宝泉院・来迎院)
🌠当日は、予定時間の京都バスにも遅れ、
叡山電鉄は積雪・倒木?のため不通になっていました 。
= 御朱印 =
☆京都大原:水墨画の世界 宝泉院の五葉松
宝泉院の山門から見事な樹齢700年のゴヨウマツが聳えて輝いています。樹高11m、枝張りは南北に11.5m、東西に14mと巨大なもので市指定の天然記念物。もし寂光院の姫小松(ゴヨウマツ樹高15m)が火災(平成12年)に遭わなければ、大原のお寺の天然記念物が共に輝き、年月の僧坊たちを見つめていたかもしれない。
「大原や 無住の寺の 五葉の松」と詠んだのは高浜虚子
宝泉院は大原寺( 勝林院)の僧坊 その道場で修業をするお坊さんの
宿坊として1013年(長和2年)に創建されたものです。
それでは拝観致します。
鶴亀庭園
江戸中期作、部屋の中から格子越しに観賞する。
池の形が鶴、築山が亀、山茶花の古木を蓬莱山とみる、
がすべて雪の中。
美しい「額縁の庭園」
盤桓園には樹齢300年の[沙羅双樹の木]wiki の見事な枝ぶりが
モノクロの世界に引き立っています。
※盤桓園とは(立ち去りがたいという意味、額縁庭園とも言う)
。
水琴窟の音に耳を傾けながらしばし無の境地で・・・
茶菓付で拝観料は800円、
先の実光院では 茶菓付でしたが、
茶菓付を断念するとお安くして頂きました(#^.^#)
日本の静謐な奥ゆかしさは、無我の境地に滴れます。
豊臣の大軍と戦い伏見城 中で自刃した。
伏見城中で自刃した武将たちの霊を弔うのに、
床板を天井の板として祀り、供養としています。
= 御朱印 =
大原魚山 來迎院へ
☆京都大原:水墨画の世界 勝林院 「天台声明の道場」
勝林院は、835年円仁によって開かれ、1013年寂源によって中興されたと伝えられる。
古くから来迎院(左京区大原来迎院町)とともに天台声明の道場であった。
1186年には顕真と法然との宗論(いわゆる大原問答)がこの寺で行われた。
江戸時代には4坊(理覚坊・実光坊・法泉坊・普暁坊)があったが、
現在は宝泉院・実光院の2院が残る。
日本音楽の源である天台声明発祥の寺。
お経を歌のように唱える声明(しょうみょう)は、
大原の里山に響く声明は、厳かに鳴り響き清められた空気が流れていた。
※大原を涼やかに流れる、呂川と律川。
「呂律が回らない」との表現は
大原の二つの川にこの名を冠していることからも、
この地が声明の本拠であることがわかります。
ここ勝林院は、声明の根本道場として1023年に大原に初めて開かれたお堂。
天井の高い本堂の中は、ひんやりした空気が漂う厳粛な雰囲気です。
参照=京都大原観光Map
本尊は「大原問答」の時手から
光明を放ち法然が正しい証拠を示したとされる”証拠の阿弥陀”踏出阿弥陀如来
他にも十一面観音菩薩像、普賢菩薩像、法然上人御木像が祀られています。
本堂
正面柱は(右)勝林院(左)大原問答
石造宝篋印塔(ほうきょういんとう) 重要文化財
梵鐘(ぼんしょう) 重要文化財
お堂は安永7年(1778年、徳川家治の頃)に再建され、縁起が刻まれた擬宝珠(ぎぼし)wiki もこの時のものです。
屋根は椹板(さわらいた)で葺いた「柿葺き(こけらぶき)」柱、梁など軸組
床板などすべてが欅造り(けやきづくり)となっています 。
雪景色で柿葺きが分かりませんね(*_*)
= 御朱印 =
宝泉寺へ
☆京都大原:水墨画の世界 実光院の不断桜
三千院の参道を進んで三千院の前を通り過ぎ、律川にかかる赤い橋を渡った先です。
正面は勝林院
実光院は、すぐそばにある勝林院の子院として建立されました。
勝林院は、仏教音楽である声明(しょうみょう)を伝承するために平安時代の中期に建立された寺院で、
子院である実光院、宝泉院を含めて天台声明の根本道場として知られています。
天台宗の法要儀式に用いられる仏教声楽を、「魚山声明(天大声明)」といいます。
「声明」とは、経典や高僧が著した論釈の文言に、独特の旋律を付けて唱えることを指す言葉です。
大原で伝承されてきた「魚山声明(ぎょざんしょうみょう)」は、
平安時代に慈覚大師円仁(794~864)によって唐から伝えられました。
「魚山」とは、中国山東省に所在する声明の聖地「魚山」の名にちなんだものです。
実光院は魚山大原寺 勝林院を本堂におく僧坊のひとつ。
江戸時代後期の作庭で、律川より水を引く心字の池を中心とした。
旧普賢院以来現存する池泉鑑賞式の「契心園」 ですが・・
凍った池の中の鯉はどうしているのでしょうか?
欄間には江戸時代中頃に狩野派の絵師 「三十六詩仙」が飾られています。
中国の漢から宋の時代に至るまでの歴代の詩人。
客殿の西側には、勝林院の子院であった旧理覚院の庭園は銀幕の雪景色。
池泉回遊式の庭園ということですが、歩きにくい!積雪何センチでしょうか?
ザクザク歩き、不断桜や残り柿を撮ってみました。
庭園の中央に植えられた不断桜(ふだんざくら)は、初秋から翌年春にかけて花を咲かせる。
主幹がなく、横から徒長した枝により株立ち状に成長しています。
雪をかぶった不断桜
↑ 実光院Facebook 拝借しました(;´∀`)
餌が豊富なのか残り柿ですね、(これから?)
参考文献 HP
= 御朱印 =
勝林院へ